扉の影から…



◆◇◆ 5 ◆◇◆

「どうして逃げるんだい?広」
 その男の声は全く聞き覚えのない物だった。なのに向こうは顔見知りのそれも旧知の友人にでも会ったように気軽に話しかけてきた。
「ボクがいるのにどうして広はいつもそうなんだい?」
 剣道も柔道も学生時代から段を取っていたし、腕には自信があった。竹刀や木刀を持って相手を見据える時にたとえ相手が真剣で向かってきても、現場で犯人に銃を突きつけられた時だって怖いと感じた事なんてなかった。
 なのに靴音が近付いてきてもボクは動く事が出来なかった。得体の知れない恐怖がボクを襲っていた。
 肩に手をかけられると全身に鳥肌がたった。無理矢理ボクを振り向かせる。
 全く知らない顔、全く知らない男がやけに親しげにボクに笑いかけている。肩にかけたままの手がボクを掴んで放さない。その目は冷たい欲情に光っていて、気味が悪かった。
 強張った筋肉を無理矢理動かそうと努力したが、僅かに声が出ただけだった。
「あなたは…誰ですか?」
 男の顔色が変わるのが見えた。
「何故知らない振りをするんだ?広はいつもそうだね…こんなに僕が愛してるのに、いつも知らないふりをして…」
 男が何を言っているのかわからない。記憶の奥底まで探ったって、こんな男をボクは知らない。会ったのは今日初めてな筈なのに…
「こんなに愛しているのにつれないね、広」
 肩に置かれた手に力がこもった。
「いや、放して!!」
 ボクは生理的嫌悪から反射的に手をはね除けようとして、反対にその手首をがっちりと掴まれてしまった。
 無理矢理身体が引き寄せられ男の顔が近付いてくる。ボクは必死に抵抗したがめちゃくちゃに暴れるだけしか出来なく、その抵抗が余程気に入らなかったらしく男を酷く激高させる結果となった。
 そのまま引きずり倒され上着を剥がされシャツを破かれる。
     誰か助けて………環さん…
「おい!そこの男、何やってる!」
 男の目が恐ろしく、迫ってくるその顔を見たくなくて目を閉じた。もう駄目だと思った時、鈴木さんの声が思いがけないほど近い所でした。
 いつの間にかボク達の周りには、見るからに柄の悪そうな強面の男達が数人取り巻いていた。その中に鈴木さんが腕組みをしてサングラスをかけ怖そうな顔で男を睨んでいる。
「鈴木さん…?」
 これ見よがしにレイバン型のサングラスをゆっくり外す鈴木さんは、ボクの知っている鈴木さんではなかった。
「こんな所で何をしているのかな?」
 掠れた声がいつもより硬質で、その眼光で気の弱い人間だったらすくみ上がってしまうだろう。ボクの上に跨ったまま凍ったように固まっている男の肩に手を置き鈴木さんは唇に酷笑を浮かべ聞いた。
「あんた広とどういう関係?」
 鈴木さんの笑顔は後ろに控えていた強面のお兄さん達より怖かった。
「どうしてあんな道を選んだ!」
 ボクの服は破かれてたり泥だらけでそのまま着ていられない。鈴木さんが貸してくれたジャケットはあの独特のタバコの甘い匂いがした。
「頼むよ…今日は俺達がちゃんとあんたの後を付けていたからよかったものの、そうでなかったら今頃どうなってたかわかるのか?」
 車を呼んで鈴木さんのマンションに行く事になった。黒塗りの運転手付きの外国車…後部座席と運転席の間は分厚い硝子で間仕切られている。
「聞こえてるか?」
 自分に起きた事が目まぐるし過ぎてストップしていたボクの思考能力は、車の中で鈴木さんと2人っきりになった時やっと動き出した。
「ご、ごめんなさい…」
     取り敢えずあの頭のおかしい男からは逃れられたんだ。
 そう納得して初めてふるえが来た。あの時の恐怖がフィードバックして来た。苦い胃液が上がってくるのを必死で堪えた。
「ごめんなさい…」
 何度も繰り返す謝罪の言葉に、鈴木さんは黙ってボクの肩を抱いた。
「無事だったから良かった」


 鈴木さんはその名も名高い平間建設の重役だった。平たく言えば○○組系の暴力団…
 ボクの落とした手帳を見て大笑いしながら教えてくれた。
「あんたが警察だなんてな…」
 暴力団関係の事件は管轄が違うからそう言う知り合いもいないし、うかつにもボクは鈴木さんがそっち側の人間だとは全然気が付かなかった。
 まだ笑い足りないと言った風ににやつきながらボクに飲み物を渡す。
「で、どうする?あの男は下の奴がかなり脅して置いたからもう何にも出来ないと思うけど?」
 豪奢な革張りのソファーに腰掛けボクの横に鈴木さんは座った。
「あんたは俺と同類だと思ったが…これも暴力団との癒着と言われるのかな?」
 鈴木さんはボクのあごを持ち上げて顔を近づけてくる。さっきの男の場合とは違ってその顔に見惚れてしまう。
「用ってのはこれだったんだろ?」
 鈴木さんの吐息はあのタバコの香り。ボクは目を閉じた…


◆To be continued...◆