「あの野郎、人を馬鹿にするにも程がある!」
兎を後にした俺は憤懣やるかたない思いでその辺りに転がる空き缶を蹴飛ばした。思ったよりも派手な音を立てて空き缶が夜の闇に転がり消えてゆく。
「まぁまぁ、後で時間取ってくれるって言うんだからいいじゃない。この仕事は忍耐力だよ」
あの状況で悠然と微笑んでいられるなんてさすがに俺よりも経験の長いだけはある。俺一人なら間違いなく途中でキレていただろう。穏和な広ちゃんが相棒でつくづく良かった。それ程、俺の東堂郁弥に対する印象は正に最低最悪のモノだった。
「まさか君が刑事さんじゃないよね?中学生?」
先刻のお姉様方とは違い、明らかに悪意を含んだ言い回し。しかもそれは間違いなく俺に向けられたモノだった。
聞き込みに対して快く答えてくれる人種は少ない。警察に好意を持つ人は少ないだろうし、いくら事件解決の為とは言え痛くもない腹を探られるような気にもなるだろう。
しかしこれほど悪意を露わにされるのも珍しい。イクヤという青年は全身に嫌悪感を漂わせて俺達を見下した。
「南青山署の澤口です。先日亡くなった小柳小百合さんの事でお伺いしたい事が有りまして。ご協力お願いします」
俺は怒りで肩を震わせながらも努めて平静を装い定石通りの質問を繰り返した。兎に角この男から情報を引き出さねばならない。
「話す事なんて何もないね。これから着替えなきゃならないから」
無愛想にそう吐き捨てて俺達の横を通り過ぎようとした勤勉なイクヤに広ちゃんがやんわりと尋ねた。何時でも柔らかな物腰の広ちゃんに大抵の人は硬化した態度を弛めるものだが、イクヤには効かなかった。
「事件のあった夜、小柳小百合さんと一緒に帰られたそうですね?」
立ち止まり睨め付けるように巡らされたイクヤの瞳を、広ちゃんは正面から見つめ更に微笑んで続ける。
「小柳さんと別れるまでの経過をお聞かせ願えませんか?犯人の逮捕の為にも是非ご協力下さい」
重苦しい雰囲気が流れる中、絞り出すような溜息を吐きながらようやくイクヤが口を開いた。
「…任意同行ならお断りだ。犯人に仕立てられたら堪ったもんじゃないからな。」
憮然として背中を向け、控え室に向かおうとしたその態度が俺には許せなかった。
人が一人、しかも近しい間柄であったろう女性が殺されたというのにこの非協力的な態度は何だ。こいつ本当に犯人なんじゃないのか?俺は走り寄り、ドアノブに掛けようとしてたイクヤの手を掴み無理矢理引き留め叫んだ。
「やましい事がないなら何も問題ないだろうっ!?」
まるで大人に喧嘩を売る子供の様に下から見上げる形になり威圧感も何も無い。そんな俺を馬鹿にするように、白くなるほど力の入った俺の指をイクヤはやんわりと引き剥がした。
「営業妨害だ、俺はこれから店の準備もしなくちゃならない。急いでるんだよ、判る?それとも仕事終わるまで待っててくれんの?」
あまりのしつこさに辟易したのか、その場の勢いか、ともかくイクヤの口からでた言葉に俺は飛びついた。
「待ってるとも!そしたらちゃんと話を聞かせてくれるんだな?」
ようやく事件の糸口を掴んだのだ。多少の事で諦めてたまるか。
「じゃあ、俺、上がるの2時だから」
イクヤは観念したように深い溜息を付き髪の毛を掻き上げた。
おお!何時まででも待ってやる。…2時?夜中の?
いや、こういう店だから当然と言えば当然だけど、俺昨日もロクに寝る暇無くて…それは広ちゃんも同じだ。
「熱血刑事さんは仕事熱心だね」
俺の顔が曇ったのをイクヤは見逃さず嫌味たっぷりに微笑みながら控え室に滑り込んだ。
鍵の掛かる音が無情に響いた。
「ごめん広ちゃん俺、勝手に…」
相棒の意見も聞かずに話を決めてしまった事を反省しながら俺は振り返った。
「ボクなら大丈夫だよ」
後ろで黙って事の成り行きを見つめていた広ちゃんは苦笑しながら俺の肩をぽんぽんと叩いた。ともあれ、このままここに居る訳にもいかない。
俺達は一旦店を辞した。
「課長の声、心なしか弾んでたよ」
経過を報告の電話を切った広ちゃんが苦く笑みを漏らす。どうやら俺達以外にはめぼしい情報が無かったらしい。これはなんとしてもイクヤから詳しい話を聞き出さねばならない。
疲れたなんて言ってられない、両手を一杯に伸ばして気合いを入れた。
「うぉ〜し!頑張るぞぉ!」
ぐ〜〜〜っ
なのに突然、腹が情け無い音を立る。事件の起きた日は大抵そうなのだが、二人とも昼飯だってロクに食べてないのだ。
「う〜俺もうダメ。広ちゃんどっかでメシ食おうよ!」
腹が減っては戦が出来ぬ。
「一回署に帰って出直そうか」
広ちゃんの提案に俺は諸手を挙げて賛成した。ここは赤坂である。気軽に入れそうな店が見つからない。こんな所じゃラーメン一杯だっていくら取られるか判ったもんじゃない。悪戯に歩き回っても体力を消耗するだけだ。結局俺達は何時間ぶりの食事とほんの少し仮眠の為にノロノロと重い足を引きずる事となった。
色とりどりのネオンが輝き夜を纏った街が俺達の影を包み込む。渋谷や新宿と違って若者が溢れかえる事はなく、華やかではあるが落ち着いた雰囲気の通りを兎に向かって歩く。ふと、前方から女性の悲鳴が聞こえた。
「ひったくりよ!誰か!!」
俺と広ちゃんは顔を見合わせて駆けだした。
「あっちよ、あっちに逃げたの!」
興奮して狼狽える女性を広ちゃんに任せて俺は指さされた方向に走った。刑事が二人も現場に居合わせて取り逃がしたとあっては、赤坂署の連中に笑われる。自慢じゃないが足の早さなら警視庁では誰にも負けない。ハンドバックを抱えて逃げ去る若者風の男を全速力で追い掛けた。
「じゃあ達っちゃん、こっちが済んだらボクも直ぐに行くから」
ハードな障害物競走の果てになんとか取り押さえた犯人を到着したパトカーに押し込みながら広ちゃんは言った。
こう言っちゃ何だが、通常赤坂署の管内で起きた事件は俺達の管轄じゃない。犯人を引き渡せばお役ご免の筈だったが、上司に怒られるからとしきりにせがむ新米警官の頼みで広ちゃんも署まで同行する事になった。
「大丈夫、任せといてよ」
胸を張って去りゆくパトカーを見送ったのはよかったが、内心不安で一杯だった。俺一人であの男からちゃんと情報を引き出せるだろうか?実際単独行動なんてした事ないのだ。置いてけぼりの子供のように急に心細くなった。
イクヤの言った通り店は2時までだったらしく既に看板の灯は消えていた。それでも、正面から入るのはどうも気がひけて裏口に回る、ドアをノックしたが返事がない。ドアノブを回すと鍵はかかっておらず簡単に開いた。
「先程お伺いした南青山署の者ですが…」
返事がない。酒瓶のケースが積まれた廊下を抜けると先程の控え室だった。中に人のいる気配はしない。まだ店の方に居るのだろうか?黒い革張りのドアをそっと開けると先刻の甘い香りが漂ってきた。クラシックが流れ女性の笑い声が聞こえてくる。…まだ営業中らしかった。
「不法侵入で訴えるぞ」
突然上から降ってきた声に驚いて見上げるとイクヤが腕を組んで壁に寄り添うように立っていた。頭の上から見下ろす不躾な瞳。
「あ、いや声掛けたんだけど返事がなくて…」
俺は店の中に首だけ突っ込んだ形で慌てて答えた。
「ドアの横にインターホンがあっただろう?それとも小さくて気が付かなかった?」
「…そんなに小さなインターホン付いてたっけ?」
イクヤは吹き出しそうになるのを必死で堪えるように肩を震わせた。何だ?何が可笑しいんだ?
「いや、もういい。見ての通りまだ客が帰らないんだ。なんだ一人?…待ってる?」
ここまで来て帰る訳にはいかない。残っているのはどうやらあと一組のようだ。
「…待たせて貰います」
イクヤに促されてカウンターの一番隅に腰掛けた。足が床に着かなくてちょっと情けない。そもそもこんな高級な店のカウンターなんかに座るのは初めてだ。普段飲み屋と言えばせいぜい仲間と近所の居酒屋に上がり込んでビールを飲むくらいで…
「で、何飲むの?ここに座るからには何か飲んでて貰わないと困るんだよね。烏龍茶くらい経費で落ちるんだろ?」
イクヤはそう言いながら慣れた手つきでグラスに氷を入れ茶色い液体を注ぎ俺の前に置いた。確かにさっき走り回ったお陰で喉はからからだし、一気に飲み干したい気分なんだけど…こういう店で烏龍茶頼んだら凄い高いんじゃなかったっけ?大体そんなにほいほい経費で落とせるものなら苦労しない。どうしようか思案しながらしげしげとグラスを見つめていると呆れたように郁弥が口を開いた。
「…勘定気にせず、いいから飲めよ」
イクヤの目が初めて棘のない笑みを湛えた。
「おい、起きろよ」
頬をぴたぴたと軽く叩かれ慌てて飛び起きた。だらしのない事に俺はカウンターに突っ伏して寝こけてしまっていたらしい。
「う…あ…す、すいません」
涎が垂れていないかこっそり確かめながら辺りを見回すと、カウンター以外の照明は既に落とされ店内は静まりかえっている。目の前にはすっかり身支度を済ませたイクヤがカウンター越しに俺を見つめていた。非常にばつが悪い。
時計を見ると3時をとうに回っていた。
「どうする?場所変える?俺閉めて帰るからここでもいいけど」
「あ、じゃあここで…」
カウンターから出てきたイクヤが俺の横に腰掛ける。俺は手帳を取り出すとお定まりの質問を始めようとした。
「最初に言っとくけど、小百合を殺したのは俺じゃないぜ」
紫煙を吐き出しながら落ち着いた声できっぱりとイクヤは言い切った。初めて見る真摯な眼差しに嘘は感じられない。
「なら尚更、ちゃんと捜査に協力してくれ。小百合さんの為にも早く犯人を挙げてやらないと」
判ったと言うように肩を竦め、当時の様子を話し出した。
「…丁目のコンビニで買い物して、小百合のマンションに着いたのが1時半頃だったかな?あの日は店も早く終わったから。その後まぁ、色々あって俺が帰ったのは3時半過ぎ。話す事なんてこれくらいだ。小百合とは特に親しかった訳じゃあないからね」
「2時間も一緒にいたんじゃないか、色々って何だよ?」
会話の中に何か手がかりになる事があったかも知れない。俺はイクヤに問うた。
「それも話すのか?」
「当たり前だ」
イクヤの目が意地悪く光り、妖しく微笑んだ。何故かドキリと鼓動が上がる。
「…先ずはうなじに軽くキス」
「は?」
「首筋に唇を這わせながらフロントホックを外して…」
「はあ?」
な、何を言ってるんだこいつ!?
「豊満な乳房を左手で包み込むように揉み…」
「だっ誰もそんな事聞いてないっ!」
俺は耳まで真っ赤にしながら怒鳴った。当のイクヤはにやにや笑いながら煙草を吹かしている。
「色々の内容話せって言ったのはそっちだろ?それとも童顔の刑事さんには刺激が強すぎるかな?」
馬鹿にされてる。完全に馬鹿にされてる。ああ、こんな時広ちゃんが居てくれたらこんな得体の知れない相手でもうまくかわして…ん?
「そ、そういや君の事を聞いてなかった。名前と住所と生年月日を…」
危ない、初歩の初歩を忘れる所だった。参考人の素性も聞かずに帰ったとあっては課長に大目玉を食らうのは間違いない。
「東堂郁弥…刑事さん下の名前は?」
「達郎だよ…って俺の事はいいから、ほら住所!」
「刑事さんは何処に住んでんの?独身寮とか言う奴?」
俺の事なんかどうでも良いというのに自分だけ話すのは不公平だなどとガキみたいな事を抜かしやがる。これは事情聴取でお見合いじゃないんだぞ。なのに俺はすっかり奴のペースに嵌ってしまった。
「26だ26!そう言うお前は幾つなんだよ?」
急に郁弥が押し黙る。新しい煙草に火をつけゆっくりと煙を吐き出しながら、観念したように口を開いた。
「…17」
じゅうしち?…17?俺より9つも下?って言うか…未成年!? 俺は立ち上がって郁弥の口から火のついた煙草を奪い取った。
「未成年なら煙草吸うな!体に悪いだろうが?」
郁弥が俺の右手を見ながら絶句している。何だよ?当たり前だろうが?
「熱くないのか?それ…」
「!!」
郁弥の問いに慌てて掌を開いた瞬間、焦げた肉の嫌な匂いが鼻腔を掠めた。郁弥が正に小脇に俺を抱えてカウンターに飛び込む頃、熱さを通り越した痛みがようやく襲ってきた…。
続く
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