私立霧峰学園物語



◆◇◆ 一章 恋心 ◆◇◆

どっくんどっくん
 心臓が口から飛び出してしまいそう。
 俺は部屋に駆け込んで頭から布団を被った。
どっくんどっくんどっくん
 顔が熱い。耳が熱い。クラクラと目が霞む。
 渉ちゃんは何を言った?
 俺を見て微笑みながら何て言った?


 俺の名前は俊一、この春全寮制の高校に入学したばかり。クラスにも、初めての親元から離れた集団生活にも漸く慣れてきた所だった。
 ここの寮は付属の大学とごちゃ混ぜで、何百人もの生徒が暮らしていた。あの人…渉ちゃんと出会ったのは生徒交流室と呼ばれる談話室だった。
 ふんわりと優しく笑う、暴れん坊でガキっぽい俺をいつも見守るようにしていた。一人っ子の俺にはまるでお兄ちゃんのようなそんな存在だった。
 ある日の事だった。夕食の後いつものように交流室に行くと、渉ちゃんが一人窓辺に佇んでいた。ボンヤリと桜色の夕日が差し込む中渉ちゃんは物思いに耽っていて、その光景に何故かいい知れない感情が湧き上がり胸が痛くなった。渉ちゃんの表情は何処か切なげで、そのまま空気の中に溶けていってしまいそうだった。こんな痛みを俺は初めて知った。
 俺はそんな渉ちゃんを黙って見ている事しか出来ず、かなり長い間そこに立っていた。桜色の夕日が菫色に変わり、一瞬オレンジの光を放つとそのまま藍の中に溶けて行き渉ちゃんの表情が闇に霞みシルエットだけになった時渉ちゃんがふり返った。
「俊一…どうしたの?そんな所に立ってないでこっちへおいで」
 渉ちゃんはにっこりと微笑んで俺に手招きした。さっきまでの切なげな色を瞳の中だけに残して渉ちゃんは綺麗に微笑んでいる。
 こんな表情を今までしてただろうか?俺には良くわからなかった。俺は今初めて渉ちゃんを見た気がした。
 まだ僅かに残る胸の痛みを隠して渉ちゃんの側に行った。優しく笑いかける綺麗な顔に無意識にそっと手を伸ばし柔らかな白い頬に触れた。
「何が…悲しいの?」
 勝手に口を出る言葉。渉ちゃんは大学生なのに、俺は未だガキなのに、何をして上げる事も出来ないのに…
「悲しいんではないんですよ」
 俺の目は渉ちゃんの切なげな瞳を見入る。いつになく真剣な俺の姿が映りこんでいる。
「……好きな人が…できたんですよ」
「……」
「その人はボクが好きだなんて思いもよらない…」
 微笑みを湛える渉ちゃんはとても儚げで…力になってあげたい。でも、何を言えばいいんだろう。
「…告白しないの?」
 喉に引っ掛かりながらこれだけ言うのがやっとだった。渉ちゃんをこんな風に笑わせるのは誰?俺はちょっとばかりそいつを嫉妬した。
「軽蔑しない?」
「…けい…べつ…??」
「ボクは同性の…男の子を好きになったんだ」
 ここは男子校だから、そんな話は聞いた事はあった。元にこの交流室で仲良さげに寄り添っている上級生だってみた事がある。消灯後にここで睦み合っている事があるとも。クラスの友達にも先輩に告白された奴もいた。でも俺には他人事のように感じていた。
 今、渉ちゃんの言葉を聞くまでは…

 ショックだった。
 渉ちゃんが他の人を好きだなんて。俺が渉ちゃんの事を好きだったなんて。
 自分で気が付かないほど、渉ちゃんに…
 渉ちゃんに恋していた。

「気持ち悪いよね…男同士で…」
 黙り込んでしまった俺に何かを勘違いしたのか、堰を切ったように渉ちゃんは話し始めた。
「その人と会ったのはつい最近、元気がよくて明るくていつも笑顔で…その笑顔を見ているとボクの方まで楽しくなった。いつでもその人を見ていたかった。見ているだけで幸せになるって思ってた」
 止めてと叫びたかった。自嘲しながら渉ちゃんは遠くを見つめその人の事を語った。遠くへ行っちゃいそうで切なさが込み上げる。
 自覚した途端、諦めなきゃいけない恋心を俺は持て余す。
「でもボクは…心の奥では恋人になりたかった…」
「……気持ち悪くなんかないよ」
「俊一…?」
 ギュッと拳を握り締め、声が震えないように気を付けた。渉ちゃんには笑っていて欲しい。
「渉ちゃんは綺麗だよ。渉ちゃんに好かれるならきっと誰だって嬉しい…告白しなよ」
 月が出てきた。冷えた光が渉ちゃんの笑顔を照らし出す。ひとつ深呼吸すると渉ちゃんは途切れ途切れ言葉を綴った。
「ボクは…俊一が好きだよ…俊一のことが好きです…」

どっくんどっくん
 極度の緊張で俺は渉ちゃんの元から逃げ出した。
どっくんどっくんどっくん
 心臓が口から飛び出してしまいそう。
 部屋に駆け込んで頭から布団を被った。
どっくんどっくんどっくん
 顔が熱い。耳が熱い。クラクラと目が霞む。
 渉ちゃんは何を言った?
 俺を見て微笑みながら何て言った?
『俊一のことが好きです…』
『恋人になりたい』
 耳の中で何度も何度も反芻する。
どっくんどっくんどっくん
 何?何を言ったの?俺わかんないよ。
 諦めようって思ったのに…
 涙が溢れてきた。どうして泣かなきゃなんないの?
   わかんないわかんない
どっくんどっくんどっくん
 何にも考える事が出来ない。渉ちゃんの言葉だけがグルグルと回ってる。
 このまま死んじゃうんじゃないかって、あんまりにも心臓が大きく早く動くから、そんな時にコンコンって小さくドアがノックされた。
「俊一…?」
 聞き覚えのある渉ちゃんの優しい声。戸惑いがちに、さも不安そうな小さな声。
「俊一…大丈夫ですか?」
 ベットの上に起き上がって見た。まだ死んでいない。心臓も飛び出してない。
「俊一…聞こえてるんならそのまま聞いてください」
 渉ちゃんが俺の部屋の前にいるんだ…俺に話してるんだ…
 何処か遠くで俺は聞いている。ポロポロと涙を零して動かない俺の身体。
 心臓の音はもう聞こえない。
「困らそうとは思っていません。ただ、俊一に知っておいて貰いたかった」
 随分と長い間があって、渉ちゃんが歩き出す気配がした。
   行ってしまう
   渉ちゃんが行ってしまう
 布団をはね除けてベットを降りた。鍵を開けるのも煩わしい。
「渉ちゃん!」
 渉ちゃんの後ろ姿に叫ぶ。さっき逃げてきた、渉ちゃんの名前を呼ぶ。
 ピクンと立ち止まり、ゆっくりと渉ちゃんがふり返る。
 俺は渉ちゃんの顔を見るとまた眩暈がした。
 真っ直ぐに立っていられなくてドアに縋り、でも今度は渉ちゃんから目を反らさない。
 渉ちゃんはそのままふわっと笑みを漏らし、小さな声で俺に言う。
「また…また今度ゆっくり話しましょう」
 渉ちゃんが俺に頷きかける。小さく頷き返すしかできなかった。
 渉ちゃんが…俺を好き?
 渉ちゃんが踵を返して去って行くのを、俺は唇を噛んで見ているしか出来なかった。