| 薔薇の名前 それはとても大切な言葉…世界でたった一つの愛おしい言葉 初めて口にしたあの夜から変わらず囁き続ける 今までも、そしてこれからも 綺麗に整えられた柔らかそうな細い髪。上質な象牙を磨き上げたようなそれでいて決して硬質を感じさせない肌。グラスの中の液体と酷似した琥珀色の瞳。指先が優美な曲線を描いてグラスに触れる。 物憂げな表情で誰を待つでもなくスツールに腰掛ける年上のあの人を俺はいつも眺めるだけだった。 「また声をかけ損ねたのか?」 マスターが意地の悪い笑みを浮かべながら安物のウイスキーをつぎ足した。進駐軍の父親を持つ彼は日本語よりも英語で話す事のほうが多い。 「…見てたの?」 薄暗い店内の更に薄暗いボックス席に陣取っていた俺は、発音だけは誉められる単語のみの返事を返すと溜息を吐きながらグラスを空にした。 最初は恋人を待っているのかと思った。 時々この店を訪れるあの人はいつも一人でカウンターに座りグラスを傾けていた。何気ない寂しげな醒めた横顔から目が離せなかった。 あの人の恋人ならさぞかし…それが全くの思い違いで、決まった相手は居ないのだと直ぐに思い知らされた。何人もの男があの人の隣に座り、そして静かに立ち去って行った。彼が店を出て行く時は一人ではなかったが、同じ男と此処に来る事は一度もなかった。別に遊び人と言う訳でもなさそうだったが、何故特定の相手を持たないのかは判らなかった。 気軽に一夜限りの相手として声を掛けるには余りにも儚げで、諦めに似た微笑を浮かべたあの人が見知らぬ男と連れだって店を出ていくのを指を銜えて見ている事しか出来なかった。 「案外踏ん切りが悪いんだな、ボーイ。お前の見てくれなら簡単に落とせるだろうに」 鼻っ面を人差し指で弾かれる。何か言い返そうと思ったが上手く英単語が出てこなかった。黙っているのを落ち込んでいると勘違いしたのか、バンバンと俺の肩を叩いてカウンターの奥に消えていった。 確かに身体には自信があった。爺さんの代から大柄な家系に生まれた俺は日本人だというのに身長は190を越える。幼い頃から家の手伝いの農作業のお陰で、特に運動もしていないのに筋肉もそこそこ付いている。顔も…多分悪い部類には入らないと思う。自分ではあまり好きではない下がり気味の目尻も、却って親近感を抱かせるらしい。東京に出てきてからこっち、自分から誘わなくても性欲処理に困る事など無かった。それでも、あの人に声を掛ける勇気は…自信はないのだ。身体目当ての他の男と一緒にされたくない、ただのガキの独りよがりな見栄だった。 「ねぇ、君日本人?」 「ああ、生粋のね。此処は暗いから時々間違われるけど」 振ってきた声に見上げると大学生くらいの青年が立っていた。俺より少し上だろうか?何の感慨もなくすらすらと言葉を返す。 この体格のお陰で既製の服などとても入らない。田舎にいた頃はお袋の縫ってくれたお仕着せの服で済ませていたが、こういう場所には余りにも不似合いだった。流行りの服装に憧れる事は有るが殆どが寸足らずで、結局はアメ横で米軍払い下げを手に入れたり輸入古着の世話になっている。戦後、食べ物が良くなって日本人の体格が変わってきたとは言えまだまだ欧米には追いつかない。身の丈6尺を越えれば充分大男なのである。顔さえ見なければ外人に交じっていても区別は付きづらいだろう。 「何飲んでるの?ボクに奢らせてよ」 そう言いながら隣に座る彼の目に宿る光はまるで珍しいモノを見る好奇の固まりで少々不快だった。それでも…あの人と同じくらいの背丈だろうか。流行りのピッタリとしたシャツに身を包んだ青年は少々痩せ気味でいかにも今風だった。 促されるままに肩に手を回すと肌の下の骨が露骨にあたった。服の上からの憶測でしかないが、あの人はもう少し筋肉質だろう。あの人の肩を抱いたなら…そんな思いが頭をよぎる。デニムのシャツの上から物欲しそうに指を這わせる青年にうんざりしながらも、すっかり想像力の逞しくなった俺はマスターの哀れむような目を尻目に店を出た。 いつ来るか判らないあの人に会う為に週末は店に入り浸りだった。閉店まで粘ってもダメな時が多い。もっとも会えたからと言って声を掛ける訳でもなく、あの人が他の誰かと店のドアを潜り居なくなってから、こうやって適当な相手と一夜を過ごす…俺は余りにも情けないくだらない男だった。誰を抱いてもあの人の事を想像し、あの人を貫く事を想いながら射精した。今、この街の何処かで誰かに身体を預けているだろうあの人を。どんな声で、どんな表情で達するのだろうか…?身体だけしか欲されていないのだから、頭で誰の事を想っても構いはしないだろう。此処はそう言う街だ。それでも情事の後に訪れる罪悪感は日に日に募るばかりで、名前も知らないあの人への懺悔を繰り返すだけだった…。 その日も俺はカウンターに座るあの人を眺めていた。特に華美な服装では無いのに着こなしが洒落ていて、やはり他の男達とは異彩を放っていた。俺はと言うと相変わらずしけた古着…到底あの人の側には近寄る事なんか出来はしない。 ドアが開いて一人の男が入ってきた。 身なりは高級そうだが、物色するように店内をきょろきょろと見回す様子はあまり感心出来るモノではない。 時々興味本位で男娼館と勘違いした輩が来店する事があるがあれもその類に違いない。まぁ、そのうち誰にも相手にされないで店を出ていくだろう。いつもの事だと誰もが失笑していた。 ところが勘違い男はカウンターに座るあの人に目を留めるとのこのこと近付いていった。どうせ袖にされるのが関の山だ。遠くて此処まではよく聞こえないが何か会話している様だ、しかし全く意に介されていないらしい。当たり前だ、あの人があんな男を相手にするものか。 なのに…俺は自分の臆病さを棚に上げて苦笑した。俺はあの人に声を掛ける勇気すらない。あのバカ男の足元にもおよびはしないのだ。 「貴様俺をバカにしてるんだな?!ふざけやがって糞汚い男色の小僧がっ!!」 突然店中に男の罵声が響いた。顔を真っ赤にして全身をわなわなと震わせ突っ立っている。カウンターに腰掛けたままのあの人が少し困惑気味に男を見つめていた。 みな関わり合いになりたくは無いがバカ男の言動に興味はあると言った感じで遠巻きに事の成り行きを見守っている。俺は腰を浮かせた。ふとマスターと目が合う。ゆっくりと口だけが動く。 『行けよ』 ウインクが号令のように俺の身体を動かした。 偶然の出会いを必然に変える為に。 「名前を…聞いてもいい?」 驚いたように目を見開き俺の顔を見つめ、一瞬目をそらした。躊躇いながらも呟くように答えてくれた。頬を朱に染めて恥じらう姿は、今までの相手にそう呼ばせた事が無い事を物語っていた。水滴を含んで絹糸のように柔らかい髪をそっと指で梳く。初めて見る眼鏡越しでない切れ長の瞳が身震いする程扇情的だった。 いつまでもこうしてあなたの名前を呼ぶ事が出来たらどんなに幸せだろう… …和馬さん… |