のびていく煙
これで良かったとか
こんな筈ではなかったとか
何も言えず
誰も答えず
煙だけが上がっていく
そして
ただここに立つ
「仕事終わったら行くから…」
受話器から国彦の声が流れた。
「急がなくても良いから」
国彦の声を聞いた途端に何故か鼻の奥がつんと熱くなった。
馴染みの看護婦がパタパタと歩き回り死体の処理をしている。横には放心したように母が座っていた。
父が倒れてからもう3年になる。一進一退の病状、日増しに体力が落ちて元々細かったその身体が枯れ枝のようになっていった。
死ぬのならさっさと死んでくれ。もうこれ以上苦しまなくていい。何度そう思ったろう。俺もお袋もそろそろ限界だった。
もしもの時延命措置をするかしないか、医者に相談されたのはほんの数日前だった。呼吸不全を起こしていて、人工呼吸器を繋いでやっと生きながらえる父は生かされ続ける事が苦痛でないとは誰にも言い切れない。死ぬものならキッパリと尊厳のある死を迎えさせてやって欲しい…それが母の意向だった。だがその時がこんなに早く来るとは思わなかった。
繋がれていた数々の機械が外され横たわった父は、これでやっと家に帰る事が出来る。生きている内はどんなに苦しかっただろう。
意識のない父に涙ぐみながら一生懸命話しかけていた母は、看護婦の手によって清拭されていくその姿をジッと見ていた。ドラマの中にあるように亡きがらにしがみつくでもなく、いたって平静に死を受け止めているように感じた。泣き崩れてくれたのなら慰める事も出来たのだろうが、俺には彼女に何もしてやる事がなかった。
パタパタとまわりが動いていく。俺も母さんも何もする必要もなく、でも何かしら動き回る。感情が動く事はなく、時間だけが麻痺した俺の上を通り過ぎた。
「雪…」
仕事が長引いたのか国彦が家にやって来たのは9時を回っていた。白い布を顔の上にかけられた父に手を合わせる国彦の肩は震えていた。
どうしてだろう。他人であるはずの国彦の方がこんなに泣きじゃくっているのに、頭の芯がドンドン冷めていく感覚がするのは何故なんだろう。
「泣いていいんだよ、雪…」
愚にもつかない事を考え込んでいる俺に、そーっと国彦の手が伸びてきた。
「雪は頑張ったから、辛かったのは俺が知ってるから…泣いていいんだよ」
何を馬鹿な事言ってるんだ
思ったのに言葉が出てこなかった。国彦は俺の頭を大切そうに抱き込んだ。
「良く…頑張ったね…ご苦労様」
3年間、父は寝たきりで目が離せなかった。食事をするのにも一人では出来なくて介助が必要だった。落ち込んで話をしなくなった母に色々馬鹿話もした。夜、このまま意識が戻らなくなるのではないだろうかと眠る父を揺り起こしてみた。職場と病院と自宅と…何度行き来をしただろう。他に、何処かに出かけただろうか?
「お疲れさま…」
国彦の腕の中で初めて涙がこぼれ落ちた。
「もうこれでこの人は苦しまなくていいんだって、死んでホッとしたんだ…」
俺は自分が許せなかったんだ。父が死んで悲しいと感じる前に『良かった』と安堵の溜息を漏らした自分がどうしても許せなかったのだ。
国彦がオヤジの代わりに俺を抱き締めてくれて、俺を許してくれて、初めて、悲しみが込み上げてきた。
外は雪が降り始めていた。10月のある夜だった…